中島飛行機とプリンス自動車
プリンスの源流は、じつは2つの航空機メーカーだった
この面のねらい
このサイトの歴史の面は、プリンス自動車工業が1947年の東京電気自動車から始まったように読める書き方をしています。それは正しいのですが、半分です。もう半分は、プリンスの名前で売られた車のエンジンを作った富士精密工業の側で、その大もとが中島飛行機です。この面では、中島飛行機から富士精密工業までの流れを、日産・SUBARU・杉並区・日本自動車殿堂の公式の資料で順にたどります。SUBARUの源流でもある、という話にも触れますが、主役はあくまでプリンス側です。
中島飛行機とは
SUBARUの公式の沿革によると、1917年に中島知久平が飛行機研究所を創設し、1918年に中島飛行機製作所と改称、1931年に中島飛行機株式会社になりました[2]。日産のショートストーリー(英語版)は、戦争中の中島が、零戦と隼に使われた「栄」、紫電改に使われた「誉」という発動機を作っていた、と説明しています[1]。
荻窪の工場
杉並区の公式ページは、桃井原っぱ公園の土地について、かつて中島飛行機の原動機工場が建ち、国産第1号の飛行機用エンジンをはじめ、零戦のエンジンも設計・製造された、と書いています。年表には「大正14年 中島飛行機株式会社東京工場開設」とあります[3]。大正14年は1925年です。区のページは「原動機工場」と「東京工場」を別々の言葉で書いており、同じ工場の別の呼び方なのかは、ページからは分かりません。
区のページは続けて、戦後は「幾多の変遷」を経て日産自動車の荻窪工場となり、その間に日本のロケット第1号も開発された、と書きます。年表の「昭和41年 日産自動車株式会社荻窪工場開設」は1966年で、プリンスと日産の合併の年と重なります。工場は1998年(平成10年)に移転し、跡地は2011年4月1日に公園として開園しました[3]。つまり荻窪の土地は、中島飛行機、富士産業、富士精密工業、プリンス自動車工業、日産自動車と、持ち主の名前を変えながら続いた場所です。ただし、区のページには富士産業・富士精密工業・プリンスの名前が書かれていないので、この4つの名前を荻窪に結びつけるのは、次に挙げる別の資料です。
戦後:富士産業と、12社への分割
SUBARUの発表資料の沿革は、1945年に富士産業株式会社と改称して航空機製造から民需産業への転換を図り、1950年に企業再建整備法に基づいて富士工業、富士自動車工業、宇都宮車両など12社に分割された、と書きます[2]。日産の解説は、降伏のあと中島が利益の出る平和産業へ切り替えるため富士産業と名を変えたが、財閥解体の指令で十数社に分かれた、と書き、そのうちの1社が富士精密工業だったとしています[1]。「12社」と「a dozen(ちょうど12ではなく、十数社にも読める言い方)」の違いは、言い回しの差と思われますが、数え方は確かめていません。
日本自動車殿堂の中川良一さんの略歴は、この流れを一人の経歴として示しています。中川さんは1936年に中島飛行機に入社して航空発動機の設計を担当し(「栄21型」「誉11/21型」の設計)、1945年に中島が富士産業に改組され、1950年に富士精密工業の技術部長兼営業部長になり、1951年に取締役、1961年に富士精密工業がプリンス自動車工業と改称、1966年に日産と合併して日産の常務取締役になりました[4]。
2つの流れが合流する
| 流れ | 年 | 会社の動き | 出典 |
|---|---|---|---|
| 中島側 | 1917年〜1945年 | 飛行機研究所から中島飛行機株式会社へ(1931年)。戦後の1945年に富士産業 | [2] |
| 中島側 | 1950年 | 富士産業が12社に分割。その1社が富士精密工業 | [2][1] |
| 立川側 | 1947年 | 立川飛行機の技術者らが東京電気自動車を設立し、「たま」の電気自動車を売る | [5][6] |
| 立川側 | その後 | 東京電気自動車 → たま電気自動車 → たま自動車 → Prince Motor Co., Ltd. と社名を変えた、と日産の解説にある | [1] |
| 合流 | 1954年 | たま側の会社が、エンジンの供給元だった富士精密工業と合併した、と日産の解説にある | [1] |
| 社名 | 1961年 | 富士精密工業がプリンス自動車工業と改称(日本自動車殿堂)。日産の解説も「プリンス」の名を再び採用したのは1961年と書く | [4][1] |
| 終点 | 1966年8月 | プリンス自動車工業が日産自動車と合併 | [7] |
表のとおり、立川側はたま電気自動車から、中島側は富士精密工業から、同じプリンス自動車工業へ入っています。プリンスセダンについて日産は、たま自動車株式会社が富士精密工業製のエンジンを積んで発売した、と書いています[8]。車体の会社とエンジンの会社が別だったことが、ここから分かります。
プリンスとエンジン:荻窪から村山へ
日産の解説によると、富士精密は戦後、ディーゼルエンジンやミシン、映写機まで幅広く手がけ、1951年に1,500ccで45馬力のガソリンエンジンを開発して、翌年に発売されたプリンス(セダン)に使われ高い評価を得ました[1]。このエンジンの型式「FG4A」のFは富士精密工業の頭文字です[8]。エンジンの話は富士精密工業の面に、記号の読み方はエンジンの記号の面にまとめています。
荻窪とロケットの関係は、ISAS(宇宙科学研究所)の公式の歴史にあります。ペンシルロケットの試験に使われたのが、富士精密の荻窪工場のテストスタンドで、その工場は後にプリンス自動車、日産自動車、アイ・エイチ・アイ・エアロスペースと変遷し、1998年5月まで日本の主力ロケットの生産が行われた、と書かれています[9]。跡地には記念碑が建っています。村山工場は1960年代に別に造られた工場で、荻窪とは場所も時期も違います[6]。
SUBARU側から見ると
SUBARUの発表資料は、1953年に富士工業など5社の出資で富士重工業株式会社を設立し、1955年に5社を吸収合併した、と書きます。社名のスバル(六連星)は、中島飛行機の流れをくむ5社の出資で設立されたことにちなむ、とも説明しています[2]。同じ「富士産業」から分かれた会社でありながら、富士精密工業はこの5社には入らず、別の道でプリンス自動車工業になりました。SUBARUのこのページには、プリンス自動車についての記述はありません[2]。つまり、「スバルとプリンスは同じ中島飛行機の子孫」という言い方は、中島飛行機と富士産業までは公式の資料で確かめられますが、分かれたあとの2つの道は別々です。
人の流れ:航空エンジンから自動車へ
日産の1940年代の年表は、解体された航空機製造業から多くの人材が自動車産業に流れ込み、新しい技術の土台になった、と書いています[5]。この面で見た中川良一さんは、その一例です。プリンスの設計者には航空の出身者がいたことは確かですが、スカイラインやグロリアの設計で、誰が何を受け持ったかは、確かめた公式の資料に書かれていません。
よくある質問
プリンスと中島飛行機は直接つながっていますか。
荻窪の工場は、いつからプリンスの工場ですか。
SUBARUとプリンスは親戚の会社ですか。
出典
- 日産ヘリテージコレクション ショートストーリー プリンス自動車工業の歩み(英語版)(2026年11月7日に確認)
- SUBARU ニュース「富士重工業株式会社が「株式会社SUBARU」に社名を変更」(2016年5月12日)(2026年11月7日に確認)
- 杉並区 桃井原っぱ公園(2026年11月7日に確認)
- 日本自動車殿堂 殿堂者紹介「中川 良一」(2026年11月7日に確認)
- 日産 企業情報 ヘリテージ 1940年代(2026年11月7日に確認)
- 武蔵村山市 歴史散策コース(南西コース)(2026年11月7日に確認)
- 日産 企業情報 ヘリテージ 1960年代(2026年11月7日に確認)
- 日産ヘリテージコレクション プリンス セダン(日本語版)(2026年11月7日に確認)
- ISAS 日本の宇宙開発の歴史「荻窪のペンシル」(2026年11月7日に確認)
- ISAS 日本の宇宙開発の歴史「輝かしい始まり」(2026年11月7日に確認)