伊藤修令(いとう ながのり)さん
プリンスのシャシー設計から出発し、のちにスカイラインの主管になった技術者
この面の読みかた
伊藤さんの名前は、櫻井眞一郎さんの面の中にも、スカイラインの病気による交代の場面で出てきます。この面は、その伊藤さん本人に焦点を当て、プリンスの技術者として何をしたかを整理します。R32スカイラインとGT-Rの復活の話は同じ編集部の非公式のファンのサイトgtr.tokyo の伊藤修令さんの面に、オーテックジャパンの時期はオーテックジャパン.jp の伊藤修令さんの面に分けました。読みは、日本自動車殿堂の紹介ページの表記に従っています。
略歴の年表(日本自動車殿堂の紹介ページ)
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1937年 | 1937年3月7日、広島県竹原市に生まれる |
| 1959年 | 広島大学工学部機械工学科を卒業。富士精密工業(プリンス自動車工業の前身)に入り、第4設計課(シャシー)に配属。スカイライン(S50からC210まで)のシャシー設計を担当 |
| 同じころ | 日本グランプリに出るツーリングクラスの車の開発にも加わる。レーシングカーR381とR382のサスペンションを設計 |
| 1973年 | 日産自動車の第3シャシー設計課長 |
| 1978年 | ローレル(C31)の開発主担 |
| 1981年 | FF車(マーチK10、プレーリーM10)の開発主管 |
| 1984年 | ローレル(C32)とレパード(F31)の開発主管 |
| 1985年 | スカイライン(R31、R32)の開発主管。R32でGT-Rを復活させる |
| 1990年〜2000年 | オーテックジャパンに出向し、常務取締役技術本部長、のち顧問。2000年に退社 |
[1]この表のとおり、略歴は1959年の次が1973年で、1966年のプリンスと日産の合併の前後の役職は載っていません。つまり、「プリンスの設計者」だった時期の細かい肩書きは、この紹介ページからは分かりません。
入社と配属:本当はエンジン担当を希望していた
日産ヘリテージの「レジェンド04」には、伊藤さん自身の語りが載っています。それによると、学生時代は燃焼を学んでいて、エンジンの担当を望んでいました。ところが配属されたのは、なじみの薄いシャシー設計で、当時の第4設計課のサスペンショングループでした。上司は櫻井眞一郎さんです[2]。入社した1959年は、初代スカイラインが生産されていた時期で、2代目の開発に向かう前にあたります(スカイラインの代の年は図鑑を参照)。
新人のころの仕事
伊藤さんの語りによると、最初の1週間は、お手本の線や文字をまねて書く練習だけでした。そのあとの最初の本格的な仕事が、エンジンマウントの設計です。何であるかも知らないまま、エンジンの重さなどのデータだけを渡され、期限は1週間。振動設計の本を買い集めて勉強しましたが間に合わず、叱られて、さらに1週間をもらって仕上げた、と語られています[2]。
Car Watch(2019年5月28日掲載)は、日産の名車再生クラブのキックオフ式で、日産アーカイブズの肩書きで登壇した伊藤さんが、プリンスの時代に櫻井さんの下で車両設計を担当したと報じています。同じ記事によれば、1964年式プリンス グロリア スーパー6の設計にも携わり、新人のころにエンジンマウントやデフマウントを設計したほか、ホイールベースが長い車なので、3ジョイントのプロペラシャフトを含むドライブライン部分の設計も受け持った、とあります[3]。キックオフ式は2019年5月25日、神奈川県の日産テクニカルセンターで開かれ、伊藤さんは再生作業のアドバイザーを務める予定とされました。グロリア スーパー6そのものはグロリアの面、1964年のレースは日本グランプリの面で扱っています。
叩き込まれた「自分で確かめる」やり方
櫻井さんは手取り足取りは教えず、必要な情報だけを渡し、できあがると質問攻めにした、と伊藤さんは語ります。「誰かがそう言っていた」「本に書いてあった」は禁句で、自分で裏を取って答えなければなりませんでした。一度信頼されると、図面をろくに見ずにサインしてくれるようにもなった、とあります[2]。ベストカー(2024年8月22日掲載。2005年の取材の再掲)では、伊藤さんが、プリンスの時代は技術の議論に職位は関係なく、いちばんよい意見を採ったと振り返り、R32の開発でも部門の垣根を越えて意見を交わす形にした、と語っています[4]。プリンスの文化が、のちのスカイラインの開発の進め方につながった、という本人の見方です。
プリンスの競技用の車と、サスペンション
日本自動車殿堂の紹介ページには、日本グランプリのツーリングクラスの車の開発に加わったことと、R381・R382のサスペンションを設計したことが書かれています[1]。R381とR382は、プリンスと日産の合併のあとに日本グランプリを勝った車です。プリンスのR380の開発責任者は櫻井さんで、日本グランプリの面では、年ごとの結果を表にしています。ただし、伊藤さんがR380そのものに関わったかどうかは、確かめた資料に書かれていません。
合併のあと:日産の中で
1966年の合併のあと、伊藤さんは日産の人として、シャシー設計の課長(1973年)、ローレルやレパード、FF車の開発の主担・主管と、車種の幅を広げていきます[1]。スカイラインに戻ってくるのは1985年です。7代目スカイラインの終わりごろ、櫻井さんが病に伏して代役を頼まれ、回復後は「あとはお前に任せる」と言われた、と伊藤さんは語っています。日産の編集部の説明では、7代目(R31)は引き継いだ時点で開発の終盤で、設計の全体を一から統括したのはR32が最初でした[2]。
その後:ミュージアムの名誉館長
Car Watch(2020年6月17日掲載)は、長野県のプリンス&スカイラインミュウジアムについて、櫻井さんの後を継いでスカイラインの主管になった伊藤さんが名誉館長を務めている、と書いています[5]。一方、ベストカー(2024年5月14日掲載)は、名誉館長を初代が櫻井さん、二代目が伊藤さん、三代目が渡邉衡三さんと書きます[6]。二つの記事の掲載日がちがうので、「2020年には伊藤さんが名誉館長、2024年には三代目に代わっている」と読めますが、代わった時期は確かめていません。
櫻井眞一郎さんとの違いを整理する
| 櫻井眞一郎さん | 伊藤修令さん | |
|---|---|---|
| プリンスへの入社 | 1952年 | 1959年 |
| プリンスでの立場 | 初代からスカイラインに携わり、2代目で日本GPをめざす開発チームの主任 | シャシー設計(サスペンション)。S50からC210のシャシー設計を担当 |
| スカイラインの責任者 | 3代目から7代目まで総指揮 | 7代目(R31)の終盤から主管。8代目(R32)が一から統括した最初のモデル |
| のちの仕事 | オーテックジャパン初代社長 | オーテックジャパン常務取締役技術本部長(1990年から) |
櫻井さんの年や立場は櫻井眞一郎さんの面、伊藤さんの年や立場は日本自動車殿堂とレジェンド04が出典です[2][1]。同じプリンスの出身でも、入社した年も、任された仕事もちがいます。
よくある質問
伊藤修令さんは、プリンスの何をつくった人ですか。
櫻井眞一郎さんの弟子と呼ばれるのはなぜですか。
経歴の年に食い違いはありますか。
人物の写真はありませんか。
出典
- 日本自動車殿堂 殿堂者紹介「伊藤 修令」(2026年11月7日に確認)
- 日産 ヘリテージ レジェンド04 桜井眞一郎(2026年11月7日に確認)
- Car Watch「日産名車再生クラブキックオフ式。2019年の再生対象車は1964年式プリンス グロリア スーパー6」(2019年5月28日・報道)(2026年11月7日に確認)
- ベストカー「R32GT-Rは300馬力でATもあった!? 歴代スカイラインGT-R開発責任者3人が語る」(2024年8月22日掲載・2005年の取材の再掲・報道)(2026年11月7日に確認)
- Car Watch「スカイラインファンの聖地と言える「プリンス&スカイラインミュウジアム」」(2020年6月17日・報道)(2026年11月7日に確認)
- ベストカー「R32GT-Rはニュルに挑んだが……スカイラインミュウジアム館長が語る開発秘話」(2024年5月14日・報道)(2026年11月7日に確認)