櫻井眞一郎(さくらい しんいちろう)
プリンス時代から日産時代まで、スカイラインを率いた技術者

経歴
日産の公式サイトの「レジェンド04」の記事に出てくる経歴を、年ごとに並べます[1]。
- 1929年4月3日神奈川県戸塚に生まれる。
- 1952年清水建設で係長まで務めたあと、プリンス自動車へ転職。
- 1957年〜1963年初代スカイラインの開発に加わり、サスペンションの担当技術者の一人になる。
- 1962年ヨーロッパでF1ベルギーGPを観戦し、帰国後にレース車両の設計主任を任される。
- 1963年〜1968年2代目スカイラインの開発で、日本GP優勝をめざすマシンのチーム主任を務める。
- 1965年プリンス在籍中に中心になって開発を進めたR380の1号車が完成。
- 1968年日本GPにR381で参戦。櫻井が考案した可変式のリアウイングを装備。
- 1968年〜1972年3代目スカイライン(ハコスカ)で、開発責任者として初めて携わる。
- 2005年日本自動車殿堂入り。
- 2011年1月17日死去。享年81。
プリンス時代の仕事
ヘリテージコレクションのR380の解説も、櫻井眞一郎(1929〜2011年)が、歴代スカイラインを手がけたことで知られる主任技術者として、R380の開発をまとめた、と書きます[2]。R380は、R380の面で、レースのようすは日本グランプリで説明しています。
合併のあとの仕事
日産の記事は、スカイラインには初代から携わり、3代目で開発責任者になったと書きます。そのあと、3代目の「ハコスカ」、4代目の「ケンメリ」、5代目の「ジャパン」、6代目の「ニューマン」、7代目の「セブンス」まで、一貫して総指揮を執ったとあります[1]。3代目は、桜井が開発責任者として初めて携わったスカイラインで、プリンス自動車工業が日産と合併して初めて登場したスカイラインでもある、と記事の写真の説明にあります[1]。
7代目の開発の終わりごろ、桜井は病に伏し、伊藤修令氏に代役を頼みました。回復後も、伊藤氏が元の位置に戻ることはなかった、と記事は書きます[1]。そのあと、桜井は初代オーテックジャパンの社長に就き、2005年に日本自動車殿堂入りを果たしました[1]。
オーテックジャパンとのつながり
日産の記事は、桜井が「後に初代オーテックジャパンの社長に就任」したと書いています[1]。就任の年や、会社がつくられた経緯は、この記事には書かれていないため、ここでは書きません。オーテックジャパンの車と歴史は、同じ編集部が運営する非公式のファンのサイト『オーテックジャパン.jp』で、別に整理しています。プリンス.comと同じく、日産自動車とは関係のない非公式のサイトです。
記事に出てくる逸話
日産の記事には、桜井をよく知る2人の語りが載っています。ここでは、事実として書かれている部分を、話した人を分けて整理します[1]。
自動車の道へ(山口京一氏の話)
自動車ジャーナリストの山口京一氏が、桜井へのロングインタビューで聞いた話として、記事は次のことを紹介しています。子どもの頃は病弱で、両親が犬や猫や山羊などを飼ってくれた。動物と遊ぶうちに「動くモノ」への関心が高まり、人の手で作る自動車にも興味を持った。父は著名な漢学者で後を継がせたがったが、桜井は自動車の道を決め、クルマ作りには計算が必要だと考えて数学ばかり勉強した。就職の時期には自動車メーカーの求人がなく、清水建設に入って1年後に係長になったが、夢を捨てきれず、1952年にプリンス自動車へ転職した。
同じ語りによると、そのころのプリンスにはエンジニアが10人しかおらず、何でもやらされました。自動車のことをほとんど知らなかった桜井は猛勉強し、生産技術や材料工学まで詳しくなった、とあります。
GTの誕生(山口京一氏の話)
1962年、桜井はヨーロッパでF1のベルギーGPを観戦し、帰国すると間もなくレース車両の設計主任を任されました。第2回日本GPには、グロリアとスカイラインを投入して、両車での表彰台をねらいました。桜井は、排気量1.5リッターのスカイライン(S50)では、鈴鹿サーキットのスプーンの立ち上がりでライバルに離されると予想し、S50のシャシーを200mm延ばして、グロリア用の6気筒エンジンを積みました。上司には「ホモロゲーション(公認)が取れるだけの台数を作ればよい」と言われましたが、桜井は「必ずこういうクルマが売れる時が来ます」と答えた、と記事は書きます。これが「スカイラインGT」の生まれた場面だと記事は説明しています。くわしい車の解説はスカイラインGTとスカイライン2000GTの面にあります。
R381の可変ウイング
1968年の日本GPに出たR381の最大の特徴は、桜井が考えた可変式のリアウイングでした。左右に分かれたウイングが、車体の傾きに応じて別々に動いて姿勢を安定させ、ブレーキをかけるときは両方を立てて、エアブレーキの役目もした、と記事の写真の説明にあります。山口氏が可変ウイングについて尋ねたところ、桜井は「これはもともと、航空機のフラップからヒントを得た」と答えたといいます。
新人への教え方(伊藤修令氏の話)
伊藤氏は1959年に入社し、シャシー設計のサスペンショングループに配属されました。上司が桜井でした。最初の1週間は、お手本の線や文字をまねて書く練習だけ。最初の仕事はエンジンマウントの設計で、1週間と言われたのに間に合わず、叱られた末にもう1週間で仕上げた、と語っています。伊藤氏の言葉では、桜井は手取り足取り教えず、必要な情報だけを渡して、できあがると質問攻めにした人でした。「誰かがそう言っていた」「本に書いてあった」は禁句で、自分で裏を取って答えなければならなかった、とあります。一度信頼されると、図面をろくに見ずにサインしてくれるようにもなったそうです。
スカイラインの哲学
伊藤氏によると、桜井の考えでは、スカイラインの哲学は走りがよいことでした。ドライバーの感覚に忠実な人馬一体が理想で、馬は後ろ足で蹴って進むから後輪駆動はよい、と桜井は説明した。さらに、馬は前足でも蹴り、後ろ足でも舵を切るから、四輪駆動と四輪操舵が要る、と続けた。記事は、これがATTESA E-TSとHICASにあたる、と伊藤氏が語ったと書いています。
ケンメリのころの変化
山口氏は、4代目(ケンメリ)のあたりから、スカイラインは走りを売りにした真面目な車から、ファッショナブルな路線へ変わったと語っています。「愛のスカイライン」というコピーを作ったのは桜井ではないらしいが、その方向を打ち出したのは桜井だった、という見方です。これは山口氏個人の見方で、日産の公式な説明ではありません。
各代のスカイラインと桜井
| 代 | 通称 | 年 | 桜井の立場(記事の記述) |
|---|---|---|---|
| 初代 | — | 1957〜1963年 | サスペンション担当エンジニアの一人 |
| 2代目 | — | 1963〜1968年 | 日本GP優勝をめざす開発チームの主任。6気筒の2000GTは「羊の皮を被った狼」と言われた |
| 3代目 | ハコスカ | 1968〜1972年 | 開発責任者として初めて携わる。合併後で初のスカイライン |
| 4代目 | ケンメリ | — | 総指揮 |
| 5代目 | ジャパン | 1977〜1981年 | 総指揮 |
| 6代目 | ニューマン | 1981〜1985年 | 総指揮 |
| 7代目 | セブンス | 1985〜1990年 | 総指揮。終盤に病で伊藤修令氏が代役 |
| 8代目 | — | 1989〜1993年 | 桜井から伊藤氏に全権が委任され、一から開発された最初のモデル。GT-Rが復活 |
表のうち年が「—」の代は、記事にその年が書かれていないため空けています。
この経歴の読み方
経歴の年は、「入社」「開発に加わる」「責任者」と、役割の段階を示しています。同じ「スカイラインの開発」でも、1957年は担当の一人、1963年〜1968年はチームの主任、1968年からは全体の責任者と、立場が変わっています。1966年のプリンスと日産の合併(合併の面)の前後で、仕事が続いている点が、この年表の特徴です。
プリンス時代に手がけられた車のうち、宮内庁に納められた御料車はニッサン・プリンス・ロイヤルの面で扱っています。櫻井がこの車に関わったかどうかは、確かめた資料に書かれていません。
出典
- 日産 ヘリテージ レジェンド04 桜井眞一郎(2026年11月7日に確認)
- 日産ヘリテージコレクション プリンス R380(A-I型)(英語版)(2026年11月7日に確認)